2011年 気仙沼・陸前高田の夏
旅行サイトに重い話は似つかわしくないとか震災当時の写真を公開するのは好ましくないとの考えがあり、今まで震災に触れてきませんでしたが、国に都合のいいように震災が利用されていることや人々の記憶が薄れていくことに憤りを感じて、コンテンツにまとめました。
2011年8月14日8時47分の宮城県・気仙沼市。
高台から見下ろすと、一見、津波の影響をうけたとは思えない光景が広がります。
気仙沼市街地。
空き缶のように潰れた車と空き箱のようにひっくり返った家屋に津波の破壊力が伺えます。宅地だったと思われる場所に水がたまり、まるで水田のよう。そこで羽根を休めるカモメが印象的でした。
水産加工場付近。
魚の腐った匂いやガソリンの匂いが入り混じり、数分で具合が悪くなるほどの悪臭を放っています。住民の健康状態が心配になりました。
サービスステーションが破壊され、あちこちにガソリンなどが漏れていました。
舗装が剥がれて砂利が露出しています。まるで昭和初期のような光景に驚きを隠せません。
重厚な酒屋の一階部分が倒壊しています。1995年5月28日 にサハリン北部で発生した「ネフチェゴルスク地震」でも、アパートなどのコンクリート製建築物が大破したものの上階部は無事なため、どこに住んでいたかで生死を分けたと報告されています。
当たり前の日常が、ある日を境に当たり前ではなくなる。これまで考えたこともなかったことが、2011年3月11日に起こりました。家族の帰りを待つリラクマを見たとき、涙が溢れて止まらなくなりました。
線路から海側は津波の影響を強く受け、線路を挟んだ高台の家屋は比較的原型をとどめていました。気仙沼線は柳津 - 気仙沼間が甚大な被害を受けたため運休が続いていましたが、2020年4月に同区間が廃止されることが決定しました。
市街地に乗り上げた「第十八共徳丸」の姿も強烈でした。全長60メートル、総トン数は330トンもの巨船を動かす津波の威力に人間はなすすべはありません。
震災の記憶を伝えるモニュメント「震災遺構」として保存を目指していましたが、市民の7割がこれに反対。2013年9月に解体が開始されました。
岩手県・陸前高田市。
スクラップと化したクルマが所狭しと集められていました。
あたりはガソリンの匂いが充満して吐き気を催すほどの状況です。
後方にショッピングセンターや市役所、病院が見えることから、この場所が中心地だったことが分かります。2011年8月当時は何もかもが消え去っていました。
市役所の前に、どこから流れてきたのか巨石が転がっていました。建物はかろうじて残ったものの内部は破壊されつくされています。
無人と化した土地に誰かが飾りを立てていました。
お盆に訪れたため、あちこちから立ち込める線香の匂いに目頭が熱くなり、突然亡くなった方々の無念さや、残された方々の辛さを思うと次第に嗚咽してしいました。
衝撃的な光景の中にあっても、ひまわりは美しく花を咲かせていました。
自然界の生き物は、どんな状況に置かれても必ず生きる道を選ぶのですね。
「今さら、こんな光景を見せてどうする?」「不愉快だ」「悲しみが呼び戻される」という意見もあると思いますが、これが9年前の現状です。今も福島県内のいたるところに放射線量を示す器械が設置されていますが、ヤバすぎるためか線量が高すぎる場所には設置されていません。
原発から離れているものの風向きにより被ばくした福島県・飯舘村です。黒毛和牛が名産でしたが牛舎にはなにもありません。
想定外の区域だったため避難が遅れたうえに、長らく「入村は可能だが居住は不可」という措置が取られていました。これは2015年に間違って入り込んだ時の写真です。
福島県内のいたるところにある行き場のない除染土の山。
2019年秋の大雨で川に流出して問題になったときに「人体に有害なレベルではない」と報道されていましたが、それが本当なら除染する意味はないのではないでしょうか?
政府は東京オリンピックの誘致のために、「復興五輪」や「汚染水はアンダーコントロールされている」など復興や被災地を都合よく利用していますが、東京に建設需要が集中することになり結果として国の予算が被災地に回らなくなるのに、なにが「復興五輪」なのでしょうか。
いま一度「復興」の意味を考えたいものですね。